九月の夢にて PRESENTED BY ゆパむ様

その白い部屋には何もありはしなかった。ジョセフ・ジョースターは部屋の中で一人孤独に立ち尽くす。影はなかった。日も、風も。そして彼は自身の体が今より筋肉質で、少し若くなっていることに気がついた。聡いジョセフはその非現実的な状況から理解する。

 これは夢だ。

ぼんやりと部屋の空間を見つめ、そのまま、ゆっくり瞼を閉じた。夢ならすぐに覚めるだろう。ジョセフはそう考えたのだ。それにその予想は正解だった。しばらく瞼を閉じていると意識は自身から離れていき、気が付けば仕事場のデスクの上で目を覚ました。

朝の光がジョセフを目覚めさせる。仕事が忙しく昨日は帰れなかったことを覚醒してきた頭でしだいに理解した。うーん、と大きく体を伸ばし、変な夢だったな、と思ったのも束の間、また書類に向かいあう。ジョセフが立ち上げた会社は今が踏ん張りどころだ、と彼も知っていたから尚無理をしていた。

 夏の暑さも幾分かましになっていた九月一日の話だった。

 

ジョセフ・ジョースター。二十歳。ジョースター不動産会社の若き社長でもある彼はここ最近多忙であった。それは前記したように立ち上げたばかりの会社が軌道に乗ってきたところだから。――と、もう一つ彼は“ある理由”のため、意識的に自分に仕事が多く入るように指示していた。

「社長、最近働かれすぎです。家にもあまり帰っていないようですし・・・・・・」

そう声をかけたのは、ジョセフの秘書である。彼は心配そうな顔をしてジョセフに告げたが、ジョセフはそれを苦笑いで躱す。

「まぁ、いいじゃあねぇか。スージーQだっていまが大切だってわかってくれてるさ。」

そう言って彼はまた書類に視線を戻した。ジョセフだって、家で自分の帰りを待っているであろう妻が気にならないわけではない。だが、家には祖母もリサリサもいるからおれが数日帰らなくても寂しくないだろうと必死に言い訳をしていた。それに数日に一度は帰っているのだから、と。

すると秘書はジョセフの返事に一つため息を落とし、

「食事と睡眠だけはきちんととってください」

と社長室を後にした。断固として聞き入れないジョセフに諦めが勝ったのだろう。ジョセフもそれに曖昧な返事を返し、見送った。

最近一日が過ぎるのが早い、とジョセフは思う。忙しい日々にどんどん時が過ぎて自分は老いていく。それが酷く怖かった。

こんなに一日が早いと思うのはあの頃以来初めてだ。あの、エア・サプレーナ島で過ごした青春の日々。毎日毎日が必死で、死ぬ気で生きようとしていた。そんな自分が今ではデスクで書類に目を通しハンコを押すだけで一日を終えている。そしてそんな退屈な日々でも確実に時間は過ぎていくのだ。ジョセフは出来るのならば、こんな日々ではなくて、もっと充実した毎日の中で老いて行きたかった。あの青春の日々のなかで。彼らと一緒に。

 

「驚いた、またこの夢かよ」

ジョセフはまた白い部屋に一人でぽつんと立ち尽くしていた。これは昨日見た夢である。確か、また自分は社長室のソファで眠りにつこうとした記憶がある。だからそのまま眠りについてしまい、今も夢の中なのだろう。昨夜の夢の続きをまた見るだなんて奇妙だな、とジョセフは頭を捻った。

しかし今日の夢は昨日と違う点が一つあった。

「しっかし、なんだぁこれ。机・・・・・・、だよな?」

そう、昨日は何もなかったこの部屋に机が存在していた。それは昨日には確実になかったものである。晩餐に使われるようなその長机。ジョセフはその机に指を這わせる。材質は見る限りは木なのだろうが、夢の中だからか感触はよくわからなかった。不思議だ、とは思うがこれは夢なのだという事実で全てが解決してしまうのである。

そして、ジョセフは予測する。きっと明日もこの夢を見るのだろう、と。ジョセフは予測が得意であった。彼はその特技を活かして戦法を練っていたし、仕事でもその特技を使って何度も自分の会社にとって有益な取引に持ち込ませ大きくしていったのだ。だからジョセフはなんとなく、気がついてしまった。二度あることは三度ある、だ。たぶん明日もこの夢を見る。そして、そのときこの白い部屋にはまたなにか増えているのだろう。

夢は己の潜在意識をよく表すというがジョセフはこの夢が自分になにを伝えたいのかさっぱりわからなかった。だからこの夢が明日も続くと予測してもいつまでなのか、なぜこんな夢を毎日見るのかまではわからない。けれども、別にこの夢を見ることによってジョセフにとって悪いことはなかったので特に気にはしなかった。

そして、またジョセフは瞼を閉じる。夢から覚めるように。ジョセフにとってこの夢は悪いものでもなかったが見続けて有益なものでもなかった。だから早く目を覚まして、仕事に戻ったほうがいいと思ったのだ。瞼は固く閉ざされる。そうして続けていればジョセフはまた知らないうちに意識を手放した。

チュンチュンと鳥の鳴く声が聞こえる。朝だ。あの夢はなんだったのだろうか、とも思うがジョセフは対して気にしはしなかった。ジョセフはまたデスクの前の椅子に腰掛け、目覚まし代わりの珈琲を入れてくるように出勤したてであろう秘書に内線を鳴らしたのだった。

 

 結果としてジョセフの予測はやはり当たっていた。

ジョセフはその白い部屋の夢をそれから毎晩見続けた。毎日、一人あの白い部屋に立たされる。そして必ず一つなにかモノが増えていた。机の次の日には椅子が、絨毯が、もう一つ椅子が、窓が。十日から数日すぎるほどになってくると豪華な食事やワインの入ったグラスも現れた。しかし、ジョセフは不思議とその食事やワインに手を付けようとは思わなかった。夢の中だから食欲がわかないのだろうか。ジョセフはただなにをするわけでもなくその白い部屋で目が覚めるのを待った。この夢はなにを自分に訴えているのだろうか。忙しい日々の中で、その夢だけが確実にジョセフの中でしこりになって存在していた。

 

 それからもジョセフは忙しい日々を送っていた。仕事をして、たまに家に帰り、最近家に姿を見せない夫に文句を言う(けれども愛おしい)スージーQと過ごして、また会社に戻って仕事、その繰り返しだ。そしてそんな忙しない日々の中でもあの奇妙な夢は続いていたのだった。

「ここも賑やかになったねぇ」

夢の部屋は夢を見始めて二十日と数日も過ぎると随分と物で溢れるようになってきた。豪華な長机と椅子が向かい合うように二つ。その長机の上には豪華な食事にワイングラス。お洒落な花を挿した花瓶もいつの間にか増えていた。壁を見れば外などないくせにカーテンと窓なんかも出来ていたし、このまま夢が覚めなくてもずっとここで過ごしていられそうだな、とジョセフは考える。

(それもいいかもしれねぇ)

ぼんやりと空を見つめながら馬鹿な事を。ここにずっといればもうあの忙しい時の中で時間に流されずに済むんじゃあないか、なにも考えずにずっとここでいられたら幸運なんじゃあないだろうか。そんなことできはしないのに、ジョセフはそう願わずにはいられなかった。

ふう、とため息をゆっくり一つ。己の馬鹿な考えを正そうとしての行動だった。ガキではあるまいし、そんな夢物語は言っていられないことはわかっていた。大人にならなければいけないのだ、おれは。いつまでも子供でいられないのだと己に言い聞かせた。

ジョセフは今日だけはあまり目が覚めたくないなと思った。夢の中なのだ、どうかそんなわがままを少しだけ許して欲しい。

 

『貴様はまだまだガキなんだからわがままなんて幾らでも言え』

 

幻聴か、懐かしい。あの男の声が、あの頃言われた言葉が聞こえた気がした。ジョセフはその声の懐かしさに思わず笑みを零す。随分と記憶から薄れていた声が思い出せた。案外この夢は有益だったのかもしれないな、と思う。いまだけはあの男の言葉を免罪符にこの夢に縋りたい。

ジョセフはその日、初めて自分から瞼を閉じて夢から目覚めようとしなかった。

 

 しかし、ジョセフは次の夢の中で、それがなんて馬鹿な自分の妄想だったのだろうかと言葉を失った。

「・・・・・・シ、―ザー」

彼がいた。

そこに、――その夢の中にシーザーがいたのだ。

シーザー・A・ツェペリ。あのころ、ジョセフの青春の日々にいつもそばで支えてくれ、ともに成長した兄弟子。そしてワムウとの戦いに敗れ死んでいった親友がそこにいた。

「・・・・・・ッ!」

彼の向日葵のように輝く金色の髪はそのままだった。格好もエア・サプレーナで過ごしていたときに身にまとっていた戦闘服である。ジョセフはシーザーの一切変わらぬその姿を見て自身の後悔を思い出し、思わず涙しそうになった。いくら悔やんでも悔やみきれない後悔だった。あのとき自分がシーザーにあんなことを言わなければ。もし、すぐに彼を追いかけていれば。そんな馬鹿な後悔。

しかしジョセフはやっとある違和感に気がついた。――――彼は動かないのだ。ただ目を閉じて、その身を椅子に預け座っていた。その姿はまるで人形でジョセフは背筋がブルリと震えたのを理解する。

そして同時に聡い彼は気がついた。昨日からこの白い部屋には、なにもモノが増えていないということを。そして、それが意味することは今日増えたモノとはシーザーの肉体で、昨日はきっとあの言葉――『貴様はまだまだガキなんだからわがままなんて幾らでも言え』――であり、声なのだ、ということだ。あれは幻聴なんかではなく本当にシーザーが語りかけていたに違いない。

ジョセフは怖かった。ただただ恐怖していた。昨日、言葉がモノとしてこの部屋に現れたのであれば、今日もなにかシーザーは告げてくるのではないか。それはもしかすると自分に対する恨み辛みなんかじゃあないか、そんな馬鹿な妄想を。彼はそんな男ではないとは知っていっているがどうしても嫌な予感が頭をよぎり、震えそうになる自身の体を抱きしめた。早く! 早くこんな夢覚めちまえ! ぎゅっと力強く瞼を閉じ必死に念じた。そしていつものように一刻も早く夢から覚めようとした。すると彼の体から簡単に意識はゆっくりと離れていく。早く、早く、早く! あんなに謝らせてほしいと焦がれていた彼にやっと会うことができたのに、軽蔑されることを恐れ、ジョセフは堪らなく逃げ出したくなった。そんな自分が酷く惨めだった。薄ぼんやりになっていく意識に胸の内が安心感で満たされる。そしてそのままジョセフは意識を手放した。

 

「・・・・・・ッ! くそっ!」

ジョセフは勢いよくベッドから飛び起きた。自身の体は汗でびしょびしょでブラウスが肌にひっつき不快感をうむ。

なんて夢なんだろうか。忙しさに理由をつけて、なにも考えていた夢が今、初めて恐ろしく感じた。そしてなにより自分はシーザーに恨まれているのかと思うと喉が焼けるように熱くなって、息苦しくなる。

「シーザー」

その名前を呼ぶのはいつぶりか。彼を呼ぶジョセフの声はそれはそれはか細いものであった。

 

「いい? 明日は絶対帰ってくるのよ?」

林檎のような赤く可愛らしい頬をぷくーと膨らませ、スージーQは早朝である今から出勤しようとしているジョセフに迫っていた。そしてジョセフはバツが悪そうに目線を逸らしながらも妻のその言葉にはいはい、と答える。三日空いての帰宅だったのでジョセフも妻に頭が上がらなかった。申し訳ないと思っているのだ、彼も。

「はいはい、じゃない! 約束してちょうだい!」

「・・・・・・わーってるよ! 絶対帰ってくる! だからフライドチキンとコーラ用意しておけよ!」

「うふふ! 了解!」

後頭部をぽりぽりと掻きながらジョセフはスージーQに返事をする。すると彼女はそれはそれは嬉しそうに微笑むので、ジョセフもやれやれと思わず笑みを漏らしてしまった。

「いってらっしゃい、アナタ。」

「ああ、いってきます」

玄関から見送ってくれるスージーQに手を振って家を後にした。彼女には寂しい思いをさせていると理解していたジョセフは出来る限り今日は早めに仕事を終わらせよう、と心の中で思う。

 

あれから、あのシーザーが夢に出てきてから二日が経つ。ジョセフは眠れていなかった。否、眠ろうとしなかったのだ。あの夢の続きを見るのが怖かった。だからどうにかして眠るのを阻止していた。眠気が訪れたら目を擦り、苦手な濃い珈琲を飲んだ。ウトウトするようなら自身の頬を叩いて無理矢理目覚めさせたし、絶対に寝ないように嫌いな努力をした。

けれどそれが夜にもなるとそろそろ限界だということにも気がつき始めていた。視界が定まらない、立ち上がろうとすると目眩がする。いつもなら二日寝なかったくらいならどうにかなったのだろうがここ最近は連日仕事を詰め込んでいて疲労がたまっており、体力的にも限界が来ているのは見るからに明らかであった。それにいつまでも寝ないわけにはいかないのだ。それこそこんな生活を続けていれば死んでしまうだろう。ジョセフはそれを理解していた。

大きなため息をひとつ落とす。それでも、もうすこしだけ足掻きたかった。せめて明日までは。明日だけは夢とはいえどシーザーに会いたくはない。会って恨み言を言われるなんて、ワガママだがしたくなかったのだ。しかし、己の体は気を抜けばこっくりこっくりと船を漕いでしまうくらいには限界のようで、正直この勝負勝てるか微妙なところだった。仕方ない、珈琲でも飲むかと内線を使おうとして立ち上がったそのときだった。

目が回って、立っていることがままならなくなった。そしてそのまま受身も取れず、床に倒れ込んでしまう。

『このスカタン!』

ああ、懐かしい声だ。あの男のおれを叱る懐かしい声。そのときジョセフは自分の体が思っていたより限界を迎えてしまっていたのだと気がついた。瞼は自然に落ちてくる。どうやらこの勝負、おれの負けのようだと意識を手放す刹那理解した。

(そういえば修行のときもあいつに勝てたことなかったっけ)

そんなことを思うとどこか遠くからあの男の小馬鹿にするような笑い声が聞こえた気がした。

 

 「JOJO、おい、起きろ」

 その言葉を切欠に意識がゆっくりと浮上してくる。どうやら自分は椅子に座らされていたようだ、とジョセフは気がついた。そして声は向かいから聴こえてくるので、きっとここはまたあの白い部屋なのだろう。長机を挟んで置いてあった二つの椅子。なるほど、ジョセフはやっと椅子がなぜ二つも用意されたのか理解した。この夢は最初からこの男との再会用に用意された場だったのだ。

「JO―JO」

もう一度呼びかけられた。けれど無視をする。項垂れるようにして下を向いている頭を無理に起こそうとはしなかった。今日増えたものは彼の意識だろうか。昨日は動かなかったシーザーが確かに動いて、今己の名前を読んでいる。動く彼の姿を見たくはなかったのに。そしてジョセフは、またいつものようにこのまま夢から覚めてしまえばいいと思って、いつも夢から覚めるときにするように瞼をキツく閉じた。

しかし、それはシーザーの言葉によって断念させられる。

「今日はおれが目覚めさせるまで目覚めねぇぞ、スカタン」

にやりと、見なくてもわかる、シーザーは笑っていた。ジョセフは思わず舌打ちが漏れそうになるのをグッとこらえる。そして、嫌々ながらも顔を上げるのだった。

「・・・・・・これはおれの夢だ」

「ああ、相変わらず理解が早くて可愛くねぇガキだぜ」

――――・・・・・・その顔に、声に、思わず涙が溢れそうになった。シーザーだ。あのとき死んでしまったシーザーが動いて、話しかけて、微笑みかけてくれている。その事実にジョセフはカッと顔が熱くなった。涙を我慢しただけ褒めて欲しいくらいだ。

「なら、どうしてアンタが夢を続けさせる権利がある?」

そう、これが自身の夢なら夢を見ることもやめることも、その決定権は自分にあるはずなのだとジョセフは考えた。しかし、シーザーは机を挟んだ向こう側でそんなジョセフの考えを小馬鹿にするかのように笑う。

「今日は特別だからな」

「特別・・・・・・?」

わかっているくせに、とシーザーは答え、自身の目の前にあったワイングラスを手にとった。くるくると手を回し、ワイングラスを回した。その仕草は修行の時、こっそり夜中に二人で酒盛りをしたときにもやっていたなと些細なことを思い出し、また泣きそうになる。消えかけていたシーザーの記憶がふつふつとまた蘇ってきた。

「今日は特別だ。貴様に言わなくちゃあいけないことがある」

回したワインの色をじっくりと見、香りを嗅いでから口に含む。ああ、そうだ。おれはそのキザな飲み方が気に入らなかった。だからよくビンの酒に波紋を流して蓋をシーザーに飛ばして怒られたっけ。

「言わなきゃいけないことは今日じゃなきゃだめか?」

ジョセフは震える声で尋ねた。だって彼は怖かったのだ。シーザーに言われるであろう恨み言を“今日”言われることが。今日以外なら受け止める。だってその恨みは自分が背負うべきなのだから。だが、今日だけは・・・・・・。

「だめだな。今日でなければいけない。」

しかし、そんなジョセフの願いをシーザーは断った。ジョセフは唇を噛み締め、耐える。

「なぁ、明日ならちゃんと謝るから。恨みも辛みも全部聞いて償いが出来るならする。だけど今日は・・・・・・シーザーは知らねぇだろうけど今日は、おれの――」

「知ってる」

ジョセフの言葉をシーザーは遮った。そして少し怒ったようにして続けるのだ。

「なんだ貴様、もしかしておれが恨み言を言うと思っていたのか?」

ジョセフは頷こうとして、止めた。だってジョセフも本当はわかっていたのだ。シーザーがそんなやつではないということを。シーザーが残してくれた最期の波紋にそんなものは微塵もなかったことを。

しかし、どうしても“もしも”を考えてしまう。そしてその“もしも”にジョセフはずっと怯えていた。

「大体、最近の貴様の生活態度はなんだ!? スージーQは放ったらかしにする! 嫌いな努力をしてまで無理に仕事を詰め込む! 飯は食わずろくに寝もしない! だから今日倒れるんだろうが!」

「はい!」

思わず勢いよく返事をしてしまった。シーザーの顔は依然怒ったままだ。しかし、その表情の中には恨みや辛みなんてありはせず、ジョセフは泣きそうなほど嬉しく感じる。

「恨むはず、ねぇだろ。貴様はよくやってくれたさ、JOJO」

そして、シーザーが笑った。修業中よく見せてくれた、顔をくしゃくしゃにして、まるで弟を見るかのように慈愛を含ませて笑ってくれたあの顔だった。

ジョセフはその彼の姿を見てもう抑えきれなかった。ポロリポロリと堪えきれず涙が落ちていく。唇を噛み締めるが止まりはしなかった。むしろその行為が涙を増やした気もした。顔が熱い、鼻がツンと痛かった。するとシーザーはそんなジョセフの顔を見てまた笑うのだった。

 

「誕生日、おめでとう。JOJO。今日はそれを言いたかった」

 

その一言にジョセフはもう我慢する気さえ起きなかった。噛んでいた唇を離し、口を開け、思いっきり泣いた。溢れる涙が口に入る。しょっぱいな、と思った。声は出さなかったが、うっ、うぁ、と声にならない呻き声が涙と共に溢れ出した。シーザーは悪戯が成功した子供のような笑みを漏らすだけで、それを止めようとはしなかった。

「おれより年上になったくせに。貴様はまだまだガキだな」

そう、ジョセフはそれが怖かった。今日、ジョセフは二十一歳になったのだ。それは生前のシーザーの年齢を超えてしまうということ。兄弟子で、本当の兄のようだった彼の年齢を超えてしまうということだ。

「別に何歳になろうがおれにとって貴様はいつまでも弟弟子だぜ。そう簡単に超えさせてやるかよ、スカタン」

「シーザ、ぁ」

「泣くんじゃあない」

クククと笑うシーザーが懐かしかった。そうだ、シーザーはこんなふうにおれを慰めるんだった。ジョセフはその大きな手で自身の目を擦る。シーザーを直視するために。涙なんかに邪魔をされちゃあ彼をきちんと見て、謝ることさえ出来やしない。

「シーザー、謝らせてほしい。あの日のこと」

「・・・・・・いや、ダメだね」

「はぁ!?」

シーザーの返事にジョセフは思わず声を荒らげた。驚きのあまり目玉が飛び出しそうになった。今の空気は断るところじゃあないだろう! そう叫んでやろうとしたそのときシーザーは答える。

「今はそんなこと話すときじゃあねぇだろ。今日はおまえの誕生日だ。しんみりするような空気じゃあない。・・・・・・あの日の話はお前が生きて、生きて、生き抜いて・・・・・・死んだあとにゆっくりやればいいさ」

それにな、とシーザーはワインをもう一口、口にし続ける。

「早くおまえは帰らなくちゃあいけない。スージーQを待たせてるんだろうが」

そしてジョセフは思い出す。そうだ、今日は彼女に帰ると約束していた。今は何時だろうか、何時だろうがスージーQは待ってるに違いなかった。

けれど

「それでも、ッ、それでもおれはお前と話したいことがたくさんある!」

縋り付く声だ。ジョセフはまるで駄々っ子のようにシーザーにもっと話をしたいと願った。なんとなくもう気がついている。この夢は終わりに近づいているのだと。だって、ほら、シーザーがうっすらと消えかけていた。窓も、カーテンも、食事も、机も、椅子も。すべてが薄くなる。またあの白い部屋に戻ってしまうのだ。

「シーザー!」

「スカタン、おれが女性を待たせることを良しとすると思うのか?」

まだまだガキだな、とシーザーは笑った。

「帰るんだよ、おまえは」

そしてその言葉が合図だった。ジョセフもまた、シーザーと同じように消えかけ始めていた。ああ、もうすぐ別れなのだ。ジョセフは溢れる涙を抑えきれなかった。

「それに誕生日プレゼントだってスージーQに渡してある。おまえらが幸せになれるように祈っておいた。」

もうシーザーは肩から下は全て消えていた。ジョセフだって同じようなものである。なんて、夢だ。なんて最高に幸せな夢なんだろうか。これ以上ない至高の誕生日プレゼントだった。

「シーザー」

「なんだ?」

「ありがとう。・・・・・・ほかにも言いたいことはたくさんあるけどよ、それはそっちに行くまで待っててくれ」

そう告げるジョセフは自然と笑みを零していた。泣いたり笑ったり忙しいやつだなとシーザーは思う。だがそれがこの男の魅力だとも知っていた。

「ああ」

そして、シーザーは消えた。満足そうに笑って。程なくして、ジョセフも消えるのだろう。ジョセフは瞼を閉じて、そのときを待った。

早く、スージーQに会いに行かなくては。家で祝いの準備をしてくれる妻を思って、ジョセフは早く帰りたいと思うのだった。

そして白い部屋にはなにも無くなった。

 

 ジョセフは走っていた。息が切れて、四肢がうまく動かない。それでも体を叱咤して動かしていた。

 夢から覚めたとき、ジョセフは社長室の床で倒れていた。どうやら倒れてそのままだったらしい。時刻はもう朝で外は街が動き出す音がしていた。そしてジョセフはそのままカバンだけ持ち出して家に帰ろうと社長室をあとにした。

仕事はまだ残っていた気がするがそんなことどうでもいい。だって今日はおれの誕生日なのだから! 幸せな夢のあとに仕事なんてしていられるか。そう心の中で叫ぶ。ああ、早く愛するスージーQに会いたい!

 走って走って、やっと家についた。もたつく手で鍵を差込みドアをあける。まだ早朝だからスージーQは寝ているだろうか? それならば目覚めのキスでもして起こしてやろう。否、そのままベッドの横に潜り込んで二度寝を決め込むのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、ジョセフはスージーQが待っているであろう寝室に向かおうとした、そのときだ。

「JOJO!?」

リビングのほうから声をかけられた。その声は見なくてもわかる愛しの彼女だ。

「おう、ただいま。」

「お、おかえりなさい」

彼女は心底驚いたように目をまんまるにしている。そんなに早く帰ってきたことに驚いているのだろうか。ジョセフは首を傾げる。

「どうしたんだよ? 今日はいつもより起きるの早いんじゃあねぇか?」

「え、・・・・・・ええ、そうね。その、伝えたいことがあって目が覚めちゃったのよう」

そわそわと落ち着かない様子のスージーQ。ジョセフは彼女の前に立ち、彼女の言葉を待った。

「とりあえず言わせてね。JOJO、誕生日おめでとう」

「おう、サンキュ!」

祝いの言葉に礼を返す。するとスージーQはジョセフの大きな胸にその身を預けるようにして近づき、ポツリと呟く。

「あのね、驚かずに聞いてね。・・・・・・ううん? 驚いたほうがいいのかしら?」

「はぁ? なんだよ? ・・・・・・なんかあったのか?」

「ええ、私ここ最近ずっと体調が悪くて、お医者様に見てもらったの。昨夜。」

スージーQの言葉に思わず驚きの声を漏らす。大丈夫なのか、と肩を掴めばこくりと頷いた。なんということだ、自分がここ最近彼女を放ったらかしていたせいで体調の変化に気が付けなかった。しかも一人で医者に行かせるようなことをさせてしまったと思うとジョセフはずっと家に帰ってなかった自分を許せなかった。

「全然大丈夫よ! でね・・・・・・お医者様に見てもらったらね」

「ああ」

もし悪い病気だったらどうしようか、腕の良い医者にツテはあっただろうか、そんなことが頭の中でぐるぐると回る。ジョセフは完全にパニックになっていた。

だから、忘れていたのだ。

シーザーの言っていたことを。そして案外あの男が意地が悪いところがあることを。

「出来てるって」

「・・・・・・なにがだよ?」

「赤ちゃん」

その一言にジョセフは言葉を失った。赤ちゃん、とオウム返しになる。スージーQはジョセフのその言葉に微笑んで頷いた。

「――――ッ!!」

そしてジョセフは喜びのあまり自分の胸にいる彼女を力いっぱい抱きしめ、その肩に顔を埋めた。ぐりぐりと頭を潜らせ、シーザーの言っていたことを思い出す。

『それに誕生日プレゼントだってスージーQに渡してある。おまえらが幸せになれるように祈っておいた。』

きっと、シーザーが言っていたことはこのことだったのだ。

シーザーがおれとスージーQの間に授けてくれた。なんて最高のプレゼントなんだ。

「スージーQッ!!」

「ええ、なぁに」

「ありがとう、最高のプレゼントだ」

彼の声は震えていたが、スージーQは気づかないふりをした。自分の旦那が意外に泣き虫なのは今に始まったことではないからだ。

「ちゃんとプレゼントも買ったのよ」

「うん、・・・・・・ありがとう」

「ええ、わたしもこの子を授けてくれてありがとう。JOJO」

自分よりも大きな体を抱きしめ、その背を子供をあやすようにぽんぽんと一定のリズムで叩いた。ジョセフはそれを甘んじて享受する。

「こんな幸せな誕生日初めてだッ!」

そしてそう告げるのだ。スージーQも笑って答える。

「ええ、わたしもすっごく幸せよ。JOJO」

ジョセフは思う。向こうに行ったとき、シーザーに話すことリストにこのことも加えなくては、と。この瞬間がどれだけ幸せだったか。きちんとプレゼントがなにか言わなかったからすごく驚いたのだと彼に話をしたい。

シーザーはきっとまたあの悪戯が成功した子供のように笑って話を聞いてくれるのだろう。ジョセフはそれが楽しみで仕方なかった。

 

『幸せになれよ、スカタン』

 

彼の声が聞こえたような気がした。ここは夢の中ではないのだからそれはきっと幻聴だ。だが、ジョセフはそれを彼のものだと信じている。

ジョセフはその言葉に答えるようにして笑った。

「幸せだぜ、すっげぇ」

すると、それに返事をするかのように、どこかからシャボン玉の懐かしい匂いが香った気がしたのだった。

 

                             終