ジョセフ・ジョースターの憂鬱 presented by 北見様

 

 

ジョセフ・ジョースターは困っていた。

四月下旬。すぐ目の前には五月初旬にかけての大型連休が待っていて、友人たちとは遊びに出かける計画を立てている。履修している科目の担当講師は、せっかくの連休に宿題を課すことのない良心的な人間ばかりだったし、泊りがけの旅行は随分と久しぶりで純粋に楽しみだ。疲れを癒すために連休の最終日は空白にした。抜かりはない。もちろん天気予報もチェック済み。快晴。目下の憂いはないと思われた。

それにも関わらず、ジョセフの心中は穏やかではなかった。

観光中も、渋滞に巻き込まれながら眠気と格闘しているあいだも、気心の知れた連中と笑い合っている真っ只中にいるときでさえ、心のどこかで悩まされていた。遊んでいる最中でさえその調子なのだから、最終日も無論、スケジュールをなにも入れなかったことを悔やんでしまうほどに憂鬱でならなかった。せっかくののんびりとした時間がもはや苦痛だった。

とはいえ、彼がこの時期に苛まれるのは毎年恒例のことであった。

たとえ天気が良かろうが悪かろうが、予定があろうがなかろうが、毎年この頃合い、五月病などと呼ばれる精神的な作用とは無関係に、ジョセフの胸の内側には度し難い靄が発生する。

なぜか。答えは実にシンプルである。

ゴールデンウィーク後、五月の第二日曜日。

世間一般に広く知られる、母の日という行事があるからだ。

彼の母はエリザベス・ジョースター。大学教授として日々、研究とともに生きている。その博識と美貌の無欠さから周囲の人間は皆、彼女に敬意と崇拝の念を抱き、リサリサと呼んでいる。

彼女はジョセフの実の母親であるが、ジョセフにとってそれは曖昧な感覚でしかなかった。というのも、幼い頃から現在に至るまで、親子らしいやり取りをした記憶があまりに少なすぎるためである。

ジョセフの実の父親であり、リサリサの夫であるジョージ・ジョースターは若くして他界していた。まだジョセフが物心つかない頃のことで、そんな我が子を守るべくリサリサはひとり懸命に働いた。そのためにジョセフは祖母であるエリナのもとに預けられ、これまでの人生のほとんどを祖母とともに過ごし、彼女の愛に包まれて生きてきた。

寂しい思いはしなかった。祖母は時に厳しくジョセフを躾けたが、それ以上の愛情を持って日々向き合ってくれた。父親の死も、母親の多忙も、彼を苦しめはしなかった。

だが、そうやって祖母と生きてきたせいか、ジョセフにとっての母と呼ぶべき存在はいつしかエリナになっていった。リサリサとの血縁は確かなものだが、どうにも母と呼ぶのが気まずく、違和感を覚えずにはいられなかったのだ。

親子らしい交流に欠け、母を母として認識できない。そのせいで、これまでに訪れた幾度もの五月の第二日曜日を、気にかけていながらなにもせずにのらりくらりと躱してしまっていた。

しかし、今年は違う。

彼が鬱屈としているのは、如何にして母の日を躱そうかなどと考えているからではない。むしろその真逆で、母の日という一年に一度の記念日に、自分になにができるのか、なにをすればいいのかと唸り、のたうちまわっているのだ。

つまり、今年の彼は実の母親になにかしてやりたいと考えているのである。齢十八にして初めてのことだ。

それに至るまでにはきっかけがあった。

前述のとおり、リサリサは大学に勤めている。教授として独自の研究を抱えつつ、学生たちの前に立ち教鞭を取る立場でもある。

当然、ジョセフもそれを知っている。普段あまり顔を合わせずとも、交わす言葉の数が少なかろうとも、母親の仕事の内容くらいは把握しているものだ。ただ、彼が把握しているのは母親の業種と大まかな役割のみ。どこの学校に勤めているかという肝心な部分を知らなかった。

あまり重要視していなかったということもある。母がどこの学校でどのクラスを担当しているかとか、生徒にどのように思われているかとか、特に気にすることもなかった。その必要性も感じられなかった。さらに、わざわざ仕事の話をするような機会もなかったし、聞かされたところでどうすればいいのかジョセフにはわからなかった。

そんな過去の自分を、現在のジョセフは殴り倒したいと思っている。せめてどこの学校に勤めているかくらいは、本人に直接聞くことはできなくとも、祖母にこっそり教えてもらっておけと後悔に伏すくらいだ。

なぜなら、そのおかげで、この春晴れて大学生となったジョセフは、気持ちも新たに足を踏み入れた学内で偶然、実の母親に遭遇してしまい、入学早々キャンパスのど真ん中で奇声をあげそうになった。

とどのつまり、彼は自らもあずかり知らぬうちに母の勤める学校へと入学してしまっていたのだ。

説明過多な回想を経たが、結果的にはこれが今回のきっかけの源。きっかけが生まれるきっかけとなった。

母と学内で遭遇し自分が痛恨のミスを犯していたと知った当初、ジョセフは早々に学校を辞めようかとさえ考えていた。しかし、そんなことを祖母が許すはずもない。一度選択した道を、志半ばどころか志を抱く前から放棄して逃亡するなど、「紳士の風上にもおけない」と気に入りの日傘の骨が粉砕するまで叱られるに違いない。その有様が容易に想像できてしまい、ジョセフは蒼白とした。それだけは避けたい。

 渋々と自主退学を諦め、再度遭遇しないことを願いながら登校する日々が続いた。辞めたところで移りたい学校があるわけでもないし、働きに出るなんて選択肢も今の彼の前にはちっとも魅力的に映らない。それなら、母から隠れながらこそこそと学生生活を続けるのが一番無難で、如何様にも対処できそうだと考えた。

 ところが、彼の挙動不審さに反してリサリサに遭遇することは最初の一度以来まったくなかった。履修可能科目の中に彼女が担当している講義はなかったし、キャンパスや廊下ですれ違うことさえなかった。ジョセフ自身はいつ母の姿を見かけても迅速に隠れられるよう常に厳戒態勢を敷いていたのに、友人たちに不審がられるばかりでなんの役にも立たなかった。肩すかしもいいところである。

 だから余計に印象深かったのだろう。

新生活も一カ月が経とうとしていた頃。警戒を解き、大学生活にも慣れ始め、講義中にうたた寝をするようになってきた頃のことだ。

学内で、母の姿を見た。

あれ以来全然見かけていなくて、家でも当然顔を合わせず話もしていなかったから、もしかしてあのとき遭遇したことも、そもそも母が進学した大学に勤めていることすら、ぜんぶ夢だったんじゃないかと思い始めた矢先のことで、なんだかぎくりとした。

 

(やっぱり夢じゃなかったんだ。)

 

安堵なのか悲嘆なのかよくわからない溜息を吐く。いや、そんなことよりも、彼を驚かせたのは母の表情だった。

ジョセフはリサリサの表情など今までいくつも見たことがなかった。感情に乏しいというわけではないが、彼女は至極冷静な人間で、唇はおろか眉の角度が変わっているところも見たことがない。想像することさえ難しいと感じた。

そんな母が教壇に立ち、ひどく真剣な眼差しを教室内の学生たちに向けていた。ぴりりとした空気が醸し出されているが彼らは真面目な様子で母の言葉に耳を傾け、けれども張り詰めすぎない、どこか和やかにさえ感じられる雰囲気が、扉を隔ててなお明らかだった。

ふと、その目が細められる。わずかに眦が下がり、眼差しがぬくもりを醸す。

笑った。

たっぷり五秒間をかけて、ジョセフはそう認識した。

初めて見た、教師として生きている母の姿。自分の知らない場所でもそうして生きて、生徒に慕われながらも実の息子との希薄な繋がりの中で忙殺されている母親を思い、ひどいもどかしさを感じた。

じわりと、ジョセフの胸に苦いものが芽生える。

 

(なにかしたい。)

 

ただ漠然とそう思った。

母のためにとか、息子としてとか、そんな大それたことを考えたわけではない。ましてや人として母のためになりたいと考えたわけでもない。

けれど、今のままでいるのも違う。今まで知り得なかったものを知り、感じ得なかったものを感じ、そしてそれが自らの実母に起因するということが、ジョセフの胸の中で曖昧ながらも確かな意志としての輪郭を持った。

 

それがジョセフ・ジョースターの憂鬱の始まりであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジョセフ・ジョースターは早々に諦めかけていた。

ゴールデンウィークも最終日。目下の悩みはいつまで経っても解消される気配がなく、憂鬱は増すばかりだったからだ。考えれば考えるほど重く圧しかかってくる。

あまりにいいアイデアが浮かばないため投げ出そうとしたこともあった。生来の性分から、こんな思いをしてまでなにかしなくたっていいじゃないかと考えかけた。だが、そうするたびに、あの日覗き見た母の表情が脳裏に浮かび上がってきて、なんとも言えない苦さが喉の奥にわだかまりを生み出す。そして、その苦みを飲み下すべく再度頭を悩ませる。その繰り返し。

幾度も幾度もそうしたというのに、結局はこの有様だ。明確な答えに辿り着くにはほど遠く、糸口さえ掴めないままベッドに沈んでいる。

もはやこのままでは、彼ひとりでは突破口を見出せない。

深く溜息を吐く、けれどもすぐさま顔を上げる。

努力が嫌いなジョセフだが、判断力と行動力は人一倍ある。のっそりとベッドから抜け出して、手早く身なりを整えた。

ちょうどこういうときに役に立ちそうな男をひとり知っている。気心が知れていて、遠慮を一切必要とせず、なんでも話すことのできる幼馴染。しかも、日課のように女性に対して甘い言葉を囁き、的確に好みを射ることのできるスケコマシときている。

使わない手はない。

 

(ホントはあんまり知られたくなかったんだけど、)

 

自室の扉をくぐりながら、ジョセフはほんのちょっぴり顔を顰めた。

世話焼きで兄貴気質な幼馴染は、事情を話せばきっとなにかしらの知恵を与えてくれるだろう。過去に幾度となく助けられてきたし、十年来の付き合いを経た今もそれは変わらない。それどころか、少しエスカレートしているのではないかと思わずにはいられないほど世話焼きに磨きがかかってきているような気もする始末だ。いくら兄弟同然に育ってきたとはいえ、そろそろ弟離れしてはどうかと心配になることもままある。

だが、それとは裏腹に意地の悪いところがあるのも事実だった。最終的には助けてくれるのだから、それは俗に称すツンデレだと友人は言う。「本当はJOJOのこと大好きなのよ~」などと笑う声が耳に甦ってくるが、ジョセフとしては、それならそうでサクッと手を貸してほしいものだと思う。デレだけでいい。

きっと今回も「そのくらい自分で考えろ」と呆れられたり嫌味を言われたりするのだろう。幼馴染の顰め面を容易に想像できてしまい、ジョセフは小さく溜息を吐いた。

自室のある二階から一階に下り、居間で読書をしている祖母に声をかける。幼馴染の家に行く旨を伝えると、気をつけてと微笑んでくれる。

帰りのことは聞かれない。ジョセフも特になにも言わない。幼馴染の家に押しかけるとき、たとえちょっと遊びに行くという名目で出かけても、居心地が良くて長居しすぎてしまったり、もしくは急遽泊まらせてもらうことになったりするパターンが多々あるからだ。そして、すでにそれが普通のことにもなっている。

遅くなったら連絡するのは彼にとって当然のことだし、そもそも幼馴染がそれを促す。すべて聞くだけ野暮というヤツなのだ。

スマートフォンだけをズボンのポケットに突っ込み、気に入りのスニーカーに爪先をねじ込みながら前進する。踵の擦れる音を聞きつつ手を伸ばし、冷たい扉に手をかける。

そのはず、だったのだが、扉はジョセフの手に押されるまでもなく、静かにその身を退けた。

そして、ゆっくりと開くその隙間から、艶やかな黒髪を覗かせる。

 

(げ、)

 

その黒髪の持ち主は、ここしばらく彼の憂鬱の種となっていた人物。年齢を感じさせぬ凛とした美貌を纏い、学生たちからの揺るぎない信頼と敬意を集める博学の女傑。ジョセフの実の母親。

 

「ジョセフ、出かけるのですか?」

 

エリザベス・ジョースター、その人であった。

なぜこの人が今ここにいるんだ。今日は帰ってくる日だったのか。っていうかタイミング悪すぎ。いや、良すぎ、か? いやそんなことはどうでもいい。これはまずい。まずいというか居た堪れない。ただでさえこの人のせいでいろいろと考えることが多いのに、そういうときに限って顔を合わせるのはいけない。個人的な精神衛生的にあんまりよろしくない。

 

「あ、えーっと、……うん、シーザーのとこ行ってくる」

「そうですか」

 

予期せぬ遭遇に初めて学内で顔を合わせたときのことを思い出してしまい、ジョセフの頭の中は途端に勢いよく掻き混ぜられた。狼狽と、それを制御しようとする意識とがごちゃ混ぜになって身体を硬直させる。キャパシティオーバーでフリーズするコンピューターになった気分だった。

リサリサはそんな彼の内情を知ってか知らずか、特に気にした素振りも見せずに頷くのみ。彼女自身もよく知る息子の幼馴染の名を聞き、いつものことと認識しているのだろう。あるいは行き先に関係なく、ただ率直に肯定を確認しただけかもしれない。

いずれにしても、その内側を読み取らせない冷静がジョセフは苦手だった。怒っているのか、悲しんでいるのか。嬉しいのか、楽しいのか。それとももとよりなにも感じていないのか。推し量ることのできない瞳が冷たく見えてしまう。

それだけが母の姿ではないということは、もうきちんと理解しているのに。

 

(でもそれは、おれに向けられたわけじゃねえし、)

「気をつけて行くのですよ。シーザーにもあまり迷惑をかけないように。それから、遅くなるようなら一度連絡を、」

「あ゛ーもう、わかってるって!」

 

自分が思い悩んでいるのに反して表情を変えない母にやきもきして、ジョセフは耐えきれずに家を飛び出した。

本当はそんなことが言いたいんじゃないとか、なにかしたくていろいろ考えてるけどわからないんだとか、言えばよかったと思うことが次から次へと浮かんでくる。だけど、振り返ることなんてできなくて、逃げるように足を速めた。

なんとなく、胸が痛い。

気づかないふりをしていたけれど、やっぱり本当なんだとジョセフは思い知った。

きっと、あの人のためになにかがしたいんじゃないんだ。そんなのただの言い訳でしかない。おれはただ、あいつらに、名前も学年も知らない学生たちに見せていた表情がもう一度見たくて、できるなら、それをちゃんと自分に向けてほしいんだ。

ちゃんと向き合いたい。こっちを見てほしい。

自分を、見てほしい。

 

それは、幼き日からひっそりと抱き続けてきた、ジョセフ・ジョースターの願いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シーザー・A・ツェペリは嘆息していた。

大型連休の最終日、のんびりと平穏に過ごしていたところに突如の来訪者が現れたからだ。

ただ来客があるだけならまだいい。若干持て余し気味だった時間も少しは意義を持つことができるだろう。しかし、彼のもとに現れたのはこの春から大学の後輩となった幼馴染、ジョセフ・ジョースターだった。

幼い頃からよく知る存在で、兄弟同然に育った男。でかい図体の割に繊細な心を持ち、ちゃらんぽらんに見えるが根底に確かな光を湛え、それを決して絶やさない。

それだけを聞くと、くだんの幼馴染はかなりできた人間のように思える。だが、実際はというと大型犬そのもののような言動で周囲を賑やかしている、もとい騒がせているし、ちゃらんぽらんな表皮がぶ厚すぎてその根幹がなかなか日の目を見ない。

今回だってシーザーが一人暮らしをしているアパートの一室に押しかけてきて早々、悲鳴なんだか雄叫びなんだかよくわからな奇声を発しながら突進してきて、雑に脱ぎ捨てられた靴をそのままに人様のベッドを占領する始末。

もったいないというか、どうしようもないというか。溜息をこぼし、それでもシーザーは大切な弟分の様子を窺った。一見するとテキトーなヤツだが、その良さは充分に理解している。そう自負している。そして、これまでの経験から用もなく押しかけてきたのでもないということもわかる。年長者としても友人としても、ジョセフに頼られる、頼りにされているのは純粋に嬉しいことなので、シーザーは枕に顔を埋めたきり静かになってしまったブルネットを乱暴に掻き混ぜてやった。

嘆息せずにいられたのはここまでである。

聞くに、幼馴染の悩みの種というのが他でもない実の母親とのことであり、来たる五月の第二日曜に如何なる手段、態度、心情でもって母と接すればいいのかを、ここしばらくずうっと考え続けていたと言うのだ。

そんなことで、とシーザーは思う。

シーザーもリサリサとは面識がある。いや、面識があるという程度の付き合いではない。彼にとっては恩師とも呼べる存在だ。

幼い頃はジョセフと同様にリサリサとはあまり接点がなく、単なる友人の母親という感覚。いや、むしろそれよりももっともっと遠い存在だった。シーザーは早くに母を失くしており、片親同士、まだ華奢な少年だったジョセフと寂しさを共有したこともある。でも彼の場合、家に帰ればいつも父と祖父、そして弟妹たちがあたたかく賑やかに家中を照らしてくれていた。父を亡くし、母と触れ合うこともできず、祖母とふたりきりで暮らしているジョセフのことを不憫に思ってしまうことも少なくなかった。そのたび、息子を残して忙殺されていく親とはどのような気持ちなのだろうと不思議な気持ちにもなった。

だが、成長とともに当時の寂しさを少しずつ忘れていったのか、いつしか幼馴染の口から母親の話題が出ることもなくなったため、シーザーの中でも幼少期の不思議な気持ちは鳴りを潜めていった。

そんなときだ。大学に進学し、専攻する分野が定まり始めた頃、リサリサに再会した。

彼女は自分のことをきちんと知り、覚えてくれていて、本当の母のように成長を喜んでくれた。微笑し、いつかの面影を見るかの如く懐かしげに目を細めた。教師としても、講義をとおしてはもちろん、研究室を見学することも許してくれ、多くの知識を伝えてくれた。凛と澄み渡る真剣な眼差しで、しっかりとこちらを見据えてくれた。

それは、母としてありながら、教師としても自らの居場所と役割を見出している、親としての清く正しい姿だとシーザーは思った。幼い頃に抱いた不思議な気持ちをぴたりと抑える答えを前にし、晴れやかに打ちのめされた気分だった。

そして、ただ純粋に、ジョセフにこの光景を見せてやりたいと思った。

本人としては不本意に母の勤める大学に進学してしまったわけだが、たとえ別の学校に進んでいたとしても、連れてきて見せてやりたいくらいだった。

そんな思惑の外でジョセフは母親の様子を知ったらしいが、ならばなぜそんなにも思い悩むのか、シーザーは理解に苦しんだ。

なにかしたいと思ったのは、少なからず感銘を受けて、心を動かされて、沸き起こる衝動があったからだろう。親と子という絆があるのだから、空白の時間なんて気にせず飛び越えてしまえばいい。生まれながらに固い絆を持っているのに、どうしてこんなときばかり後ろ向きになって躊躇うんだ。

シーザーはジョセフの態度にやきもきした。その一方で、ふつふつと浮かぶ言葉すべてをきっちりと律した。

理解しているからだ。

たとえ親子という絆があっても、かつての自分が感じていたように、ジョセフにとってもリサリサは未だにどこか遠い存在なのだ。だから躊躇うし、必要以上に慎重になる。考えれば考えるほどどうすればいいのかわからなくなって、あの頃の寂しさが甦ってくる。

きゅっと眉を寄せるジョセフの頬は、なるほど少年時代の頃の彼そのままに見えた。

 

「べつに特別なことなんてしなくてもいいだろう。なにか喜ばれそうなものを贈るとか」

 

やれやれと呆れてみせながらシーザーが言うと、ジョセフは不機嫌そうに唇を尖らせる。それがまた幼い日の面影を助長させて、言い得ぬもどかしさを呼んだ。

リサリサと再会してから抱き始めた重たい灰色の靄が、シーザーの喉元を圧迫する。

その独特の苦みを嚥下するのを知ってか知らずか、ジョセフは「それがわかんないんだって」といつもよりやや気落ちした声音で呟いた。

ふたりの眉間に同じくらい深い皺が寄っている。

 

「アイツの好きなものとか、……なんも知らねえし、」

 

枕に顔半分を押しつけたままもごもごと発せられる音は、おそらく幼馴染という間柄にあるシーザーにしか解読できなかったであろう。塩を振りかけられたナメクジの如くしぼんでいった語尾など、もはや言葉の輪郭を失ってしまっていた。

シーザーは、そんな音さえ聞き取れてしまう間柄であることをほんのちょっぴり疎ましく思い、けれども、ここまでしおれきっているジョセフの稀有な様子を、これまたほんのちょっぴり不憫に思った。

 

「そういう話、したことねえんだもん……」

 

実の母親の好きなものさえ知らない。実の母親が喜びそうなことさえ思い当たらない。

およそ普通の親子であれば知り得ることをなにも知らない幼馴染は、さながら迷子のようだ。

あのときからずっと思っていたことを、十年越しに再び思い出す。

リサリサとの確かな絆を持つはずのジョセフを素直に羨むことができないのは、おそらくそういうところにあるのだろう。可哀相だなどと見下げたことを思ったことはないが、ジョセフ自身が母親との確固たる繋がりに気づくことができずにいるからだ。

本当はすぐに手が届くのに、まったく見当違いの方向に手を伸ばそうとしている。そんな彼の隣にいながらにして、すべてを俯瞰する場所に立ってしまったがために、羨んでいいのか妬んでいいのか、背中を押してやればいいのか引きとめればいいのか、ちっとも判別できやしないのだ。

嘆息したくもなる。

シーザーは目を伏せて眉間を揉みほぐした。

 

「だからスケコマシのお前に聞きに来たんじゃんかー!」

「一言余計だ」

 

そんなシーザーの様子に、ジョセフはついに痺れを切らした。

この幼馴染ときたら、さっきからおれがいろんな気持ちを押し込めて助けを求めているというのにちっとも真剣に考えてくれやしない。それどころか、いつもより溜息の深さも冷たさも二割増しだ。なんだかんだと毎回追い出さずにいてくれるのは有り難いし、ヒントをくれるのも嬉しいのだけれど。そのせいでなにかにつけて頼ってしまうのだけれど。マジでツンとかそういうのいらねえし。

ジョセフは尖らせた唇の内側で歯噛みしながら思った。

シーザーにとっても事情や葛藤があるわけだが、今の彼にはそれを気にかける余裕などない。なにせ、期日はもうすぐ目の前にまで迫っている。そのうえ、今日が終わってしまえば、あとの平日は学校の授業で潰れてしまうのだ。

 

「シーザーならオンナノヒトが喜びそうなもの詳しいし、それに、」

 

なにか特別なこと、あるいはシーザーの言うように母に喜ばれることをするにしても、準備に割くことのできる時間はかなり限定的だし、そもそも具体案がなければ準備のしようもない。だからなんとしても今日のうちに、せめてどんなことをすればいいかだけでも見つけたい。

その一心だった。

 

「おれより……、リサリサとよく話すし、いろいろ知ってるかな、って……、」

 

こんなことで助けを求められるのは、この幼馴染だけだ。自分の実の母親のことを、他の人間に尋ねなければわからないというのは、ひどく息が詰まる。苦しい。本当は、シーザーに訊くのだってあまりいいことじゃないんじゃないかと思う。幼馴染とはいえ、シーザーのほうが、自分より、母のことを知っているということを目の当たりにするのは、どうしてか、ひどく嫌だった。たぶん、羨ましいのだろう。

兄弟のように育った片割れだけが、母のことを理解している。

自分は知らない。わからない。すべて。

想像するのも、なんだか恐ろしかった。

でも、シーザー以外の誰かに訊くのなんてもっと嫌だし、それに、他の誰かなら「この年になって」と笑われそうなことも、この男ならば決して笑わずに聞いてくれるし、この気持ちもわかってもらえると思ったから。

 

「なんにも知らねえんだもん……、」

 

なのに、この仕打ち。ジョセフはひっそりと泣きたい気分になった。

再度枕に顔を埋めて突っ伏してしまった幼馴染に、シーザーはといえば、なにやら奇妙な心持ちになっていた。正直なところ、ジョセフがここまで真剣に考えているとは意外としか言いようがなく、ほんの少し驚かされた。

今までの彼ならば、「べつに興味ねえし」の一言で一蹴されていたはずである。本当に興味がないのか、それとも母に対して抱き続けた寂しさがそうさせるのかはわからないが、シーザーにはそれが、ジョセフが頑なに母を避け続けているように見えてならなかった。

だからこそ、シーザーはジョセフを羨みながらどこか妬ましく思っていた。自分の手から理不尽に失われていった絆を持っているのに、手を伸ばせば届かないはずがないのに、コイツは自ら絆から離れていこうとしていると感じていた。

だというのに、こぼれ落ちる彼の心を聞けば聞くほど、かつて自分が抱いてきた羨望と嫉妬はなんだったのかと思わずにはいられなくなった。ほんのちょっと目を離した隙に、ジョセフはてのひらを返したかのように母親のもとへ歩み寄ろうとしている。思い悩んで、のたうちまわって、それでも決して諦めようとしていない。

そして、あろうことかこちらに助けを求めてくる。

シーザーは嘆息するのをやめ、代わりに諦めの境地に達した脱力感に任せて小さく溜息を吐いた。なおも伏したままの幼馴染の髪をいつもより乱暴に掻き混ぜて、こちらを見上げようとする双眸を枕に沈めながら苦笑する。

そして、思う。なんとも厄介な幼馴染を持ったものだ。自分がなにを手にしているかも知らずに、それを持っていないこちらに寄りかかってくるのだから。羨んでいたはずが羨まれていて、それを忍んででも自分を選んでくれる、選んでしまう弟分が、なんというか、どうにもこうにも憎めない。

 

「JOJO、お前は難しく考えすぎなんだ。 いいか?」

 

ぺしりと手を払いのけて、ジョセフはじろりと幼馴染を睨む。それをものともせず、彼のの額に反撃のデコピンを食らわせると、シーザーは女性への贈り物に対するありとあらゆる見解を懇々と説き始めた。

次から次へと繰り出されるスケコマシ実績と甘ったるい経験談の数々に、早くもジョセフの頬に後悔が滲む。やってしまったと言わんばかりだ。幼馴染の妙なスイッチを押してしまった感覚が指に残っているようで、意味もなく両手をわきわきと開閉させる。

それに気づかぬフリをして、シーザーは記憶を手繰る。思い出されるのは様々な女性の喜びの声などではなく、目の前の幼馴染と寂しさを共有した少年時代だ。

思えばあの頃から、心のどこかでジョセフを羨んでいたような気がする。そして、それを思い出しては蓋をして、溢れそうな苦いなにかを飲み下していた。

だが、今は不思議と気分がいい。思い出しても苦しくない。明瞭な夢を反芻するかの如く、すっきりとした後味だ。

羨望がなくなったかと言われればそうではないし、未来永劫妬むことはないかと問われれば肯定することは決してできない。けれど、それは彼も同じらしいから、然して重要な問題ではない。

互いに羨み合えるなら、このくらいの嫌がらせをしたって罰は当たらないだろう。

 

シーザー・A・ツェペリは胸中で笑い、幼馴染の小さな溜息を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジョセフ・ジョースターは憤慨していた。

理由は簡単。せっかく幼馴染を頼って押しかけたのに、大した成果を得られなかったからだ。それどころか、まったく関係のない、自慢なのか嫌がらせなのか判別のつかないスケコマシエピソードを長々と聞かされた挙句、ひとしきり喋りきって満足したら用済みとばかりにポイと追い出された。腹を立てて当然の仕打ちである。

 

(今度レポートの邪魔しちゃる……!)

 

報復の算段を立てつつ帰路を辿る。

ただでさえ時間に追われているところを無駄話に付き合わされ、貴重な休日を潰されたジョセフにとっては、次々に湧き上がってくる仕返しのどれも大したダメージを伴わないカワイイ悪戯だ。ただ、被害を受けるシーザーにとってはそれなりの痛手となり、当然相応の報復を彼もまた考えるだろう。

焼ける空の下で企み顔のジョセフは、今まで幾度もそうして不毛な喧嘩を繰り返してきたのに、性懲りもなく同じ轍を踏もうとしていることに気づいていなかった。

というのも、この瞬間だけジョセフは憂鬱を忘れることができていたおかげなのだ。憤慨に覆われていたというのも理由のひとつではあるが、ひとつ拠り所とすべきヒントを幼馴染の長話の中に見つけていたのである。

それはひどくたいへんな作業だった。なにせ普段より格段に饒舌さを増した幼馴染の言葉は九割方がジョセフにとって至極どうでもいいことで、しかも聞くに堪えないこっぱずかしい内容ばかり。「なんでおれがコイツの恋愛経験なんかを聞かなきゃならないんだ」と話の最中に最低でも五回は思ったし、途中で「おれ、ここになにしに来たんだったっけ?」と当初の目的を忘れかけたくらいに精神がすり減った。

もはや拷問に近かったと、ジョセフは思い出してぞっとする。

そんな話が続き、日が傾き、今日一日匿ってもらおうかなどと考えていたはずのジョセフが「もう帰りたい」と思いを改め始めた頃、それが不意に、明瞭に耳に届いた。

 

「やはりプレゼントの鉄板といえば花だろう」

 

如何なる紆余曲折を経てその台詞に辿り着いたのかはちっともわからないが、ジョセフは確かにその言葉を聞いて、しかと記憶に留めることに成功した。シーザーは未だ砂を吐きそうな話を続けていて、容赦なく体力を削りにかかってきていたが、やはりそこは幼馴染。こちらの求めるヒントを寄越してくれたのだとジョセフは信じることにした。

もしそうではなくて、本当にただの純然たる嫌がらせのためだけにあんな話を聞かされたのだとは思いたくない。自分を信じ込ませて、ジョセフはようやく一歩前へと思考を進めた。

母親に花を贈る。

その目的を持って帰宅し、祖母とふたりきりで食卓を囲んだ。午後に一度顔を見せていたリサリサはすでに家を後にしていたようで、廊下にも居間にも姿は見えず、二階の自室や書斎にも気配は窺えなかった。

少し肩を落とす。できるなら、色の好みだけでも聞いてみようかと考えていたのに。タイミングが悪いと、今朝も思ったことをジョセフは再び繰り返した。

しかし、実のところこうなることは想定の範囲内であった。今までにも何度か同じような経験をしているし、そもそも最後に母親と一緒に食事をしたのは遥か昔のこと。自分が何歳のときだったか思い出すことさえできないくらいに遠い記憶だ。母も交えて夕食をとるという事態に発展するには実績がなさすぎる。

それに、今更一緒に食卓を囲んだところで、いつも祖母と食事をするときのようにはいかないだろう。きっと静まり返った気まずい雰囲気で、せっかくの祖母の手料理を味もわからぬまま胃に詰め込まねばならない。

そうなる可能性を回避することができて、ジョセフは内心安堵してしまう。そんな自分に気づき、彼の胸には消化できたはずの憂鬱が再び色濃く渦を巻いた。

日常であるはずの祖母との食卓が、なんだか少し寂しかった。

 

翌日、ジョセフは連休明けの気だるさを抱えたまま登校した。

いつもどおりに講義を聞き流し、友人と笑い合い、昼食をとり、うつらうつらと舟を漕ぎながらペンを握る。連休中にも馴染みの友とは会ったのに、久しぶりにキャンパスの空気を吸うためか、入学当初の新鮮な気分に似たものを感じた。慣れたとはいえまだ大学生活を始めて一か月。当然のことかもしれないが、ぎこちないような、真新しいような、ひんやりとした匂いが漂っているような気がした。

学内で母の姿を見ることはない。

間違いなくいるはずなのだが、やはり研究室で過ごす時間が長いのだろう。講義はジョセフたちが使う教室とは別の棟にある一室で行われているらしく、鉢合わせることもない。友人と並んで歩きながら視線を走らせてみたが、キャンパスにも教室の中にも、廊下にも食堂にも、どこにもそれらしい姿は見当たらなかった。

 

(ちょっと前まで、あんなに避けてたのに、)

 

ジョセフは、知らず知らずのうちに母を探してしまっている自分に辟易とした。自ら隠れて、眉を寄せて、不意な遭遇を恐れてさえいたのに、今の彼は過去とは真逆のことをしている。

ひっそりと、胸の中に憂鬱が膨らんでいく。

その日、結局リサリサには一度も会えぬままジョセフは帰宅してしまった。

そして、次の日も、その次の日も。あっという間に、まさに飛ぶようにという表現に相応しく時間が過ぎ去っていき、その間ジョセフはなにもできなかった。

登校して講義を受けなければならないというミッションこそあれど、朝から晩までスケジュールに一片の隙もなかったわけではない。空き時間もあったし、日が暮れる頃にはもう友人と別れて帰路についていたし、暗くなってからは疲れと怠惰に唆されるままに自室でうだうだしているだけだった。

でもとか、だってとか、あらゆる言い訳めいた言葉が重く圧しかかり、土曜の朝にジョセフを縫いつける。せっかく高く昇った太陽が爽やかな光を放っているというのに、今は憂鬱の権化に他ならない。空腹に耐えかねたジョセフがのそのそとベッドから這い出るまで、その光源は彼に無視され続けることとなった。

頂から降り注ぐあたたかな光が、カーテンの隙間から室内に差し込む。

重たい頭を持ち上げたジョセフは、いよいよ後がなくなったことに思考を支配されていた。ぼさぼさ頭のままのったりと階段を下りているあいだも、あっちへこっちへと頭をふらふらさせる。壁にぶつかっても鈍く呻くのみ。相変わらず、花といってもどんな花を買えばいいのかわからないままなのだ。

 

(どーしよ……、)

 

物理的にも精神的にも痛むこめかみに顔を顰めながら、祖母が用意してくれていた朝食兼、昼食を胃に収める。午後から約束があったらしく、ダイニングテーブルの上に置手紙と皿が並んでいた。まどろみの中で聞いた施錠の音を思い出して、遠慮なく溜息を吐く。もはや頼れる人はいない。

 

(やっぱりやめる、ってのは、ナシだよな、やっぱり。)

 

どっかりと乱雑に椅子に腰かけ、祖母の筆跡に目を落としながら皿のラップを剥がす。

美しい黒の文字と、丁寧に切り分けられたタマゴサンドが祖母の性格そのままを表していた。

相反する自分。ジョセフはなんとなく卑屈な気持ちになった。

 

(でも、)

(いや、“でも”もナシだ。“だって”もナシ。)

 

だが、すぐに思い直す。祖母はいつだって、ジョセフのそのままの気持ちや言動を認め、信じ、許してきてくれた、唯一であり最大の味方だった。むしろ、彼の掴みどころのない、ともすればいい加減だと解釈されてしまいそうな性格などよりも、意志を曲げること、志半ばにして諦めることを良しとせず、それを努力が嫌いなジョセフにこれでもかというほど教えてきた。もちろん、彼女のその身をもってである。

ジョセフは戦慄した。たとえあらかじめ祖母になにも伝えていなくとも、なぜか彼女は毎度ジョセフの逃走に気づく。そしてこともなげに、されど予期せぬタイミングで唐突に成果を尋ねてきて、言い淀む彼に恐ろしいほどやさしく微笑みかける。そのあとは、あえて語るまでもない。

ジョセフはこの世でもっとも愛し、もっとも大切にし、もっとも尊敬している祖母の、比類なき恐ろしさを思い出し、自らの愚かな考えを捨てると同時に意を決した。

ここまできたら、突き進むしかない。

 

(とりあえず、見に行って、良さそうなのを探そう。)

(そうしよ。)

 

咀嚼するうちに目も覚めてきたようだ。次第に眉間の皺がほどけ、下がり気味だった眉と瞼がきゅっと持ち上がる。皿に盛られたサンドウィッチをすべて綺麗に平らげて、きちんと手を合わせてご馳走様を言う。

食器を片づけて、顔を洗って、歯を磨いて。気に入りの洋服に袖を通し、財布とスマートフォンを手にして玄関を出る頃には、卑屈な気持ちは跡形もなくジョセフの中から消え去っていた。

歩き慣れた道を進む。

軽快にアスファルトを鳴らしながら、ジョセフは頭の中で目的地を選別していた。

確か駅に向かう通りに一件、花屋があったはずだ。小さいけれどオシャレな外観で、よく人が出入りしているのを見かける。ショーウインドウに色とりどりのサンプルが飾ってあって、季節に応じたブーケを店先に陳列しているため、目を引かれて足をとめている人も多い。ただ、可愛らしい雰囲気で、訪れるのも女性客が多いから、男性客はどうにも入りづらい印象だ。

それからもう一軒、シーザーの家まで行く途中のショッピングセンター内のテナントにもある。ショッピングセンターの出入り口のすぐそばにあるその花屋の前は、菓子やジュースを仕入れる際に必ず通るのだ。どこにでもあるような一般的な店づくりで、すでにラッピングされたものからまだ水に挿してあるものまで揃っている。誰でも入りやすく、値段も手ごろなのだが、種類はあまり多くないのだろう。代わり映えしない陳列が目立つと記憶している。

ううむ、と唸りはするものの、ジョセフの足取りは淀みなかった。さくさくと駅のある方向へと角を曲がる。追い越していく自動車が巻き起こす風を浴びて髪を遊ばせる。

内心では、意を決したんだか投げやりなんだかよくわからないアンバランスな緊張感を覚えていた。それでも、四方を壁に囲まれていない開けた世界に身を置いていると、どこからともなく風が吹いて、絶え間ない光に包まれて、目の前すべてが明るく見えた。

世界は広大だなどと哲学めいたことを考えたのではなく、ただ単純に、理由もなく、どうにでもなるかと自分を諭すことができた。

 

ジョセフ・ジョースターの憂鬱は、すっかりと鳴りを潜めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジョセフ・ジョースターは混乱していた。

どうしてこんなことになったのかわからない。なぜ今、自分は猛然とレジ打ちにいそしんでいるのか。次から次へとやってくる伝票に目を走らせ、レジに打ち込み、紙幣と硬貨を受け取って釣り銭を手渡しているのか。

 

(おれ、お客さんじゃなかったっけ……?)

「ありがとうございましたァー!」

 

すぐ隣で、弾ける笑顔の同級生が元気よく挨拶をする。

それを聞き、ようやく客をさばききった店内を見まわして、ジョセフは事の次第を思い出した。

順調に前へ出る爪先に任せて、目的の花屋に辿り着いた。記憶どおりの洒落た佇まいで目を引く外観。いつからここに店を構えているのかは把握していないが、建物はかなり新しいみたいでショーウインドウのガラスもぴかぴかに磨かれていた。このあたりは店の入れ替わりが激しいと聞いているが、きっと長く息を続ける店になるような気がする。

そう思いながら、ジョセフはやや緊張した面持ちで店内に足を踏み入れようとした。しかし、残念ながらそれは叶わなかった。

店が休みだったわけではない。きちんと営業していて、店内には明かりがともっている。彼が入ろうとする前に出てきた客もいたから、そこは疑いようがない。

ただ、物理的に不可能だったのだ。

店の中には老若男女問わず、たくさんの人たちがあふれていた。そう広くない店内に会計を待つ列ができ、ぎゅうぎゅう詰めの中を這うようにして品定めしているものもいる。通勤ラッシュの満員電車を彷彿とさせる光景だった。

ジョセフは口元を引き攣らせて後退りした。客は皆、ジョセフと同じ目的で来店しているわけだが、この国民的行事に初参加の彼は「最近の花屋ってこんなに忙しいモンなの?」と的外れなことを考えるばかりだ。

また一台、店の前に路上駐車をする自動車が増えた。運転手が降りてきて、果敢に店内に突入していく。

さらに人口密度の増した店の中にジョセフのような体躯の男が詰め込まれれば、確実に誰かひとり潰れるだろう。彼自身もそのことを危惧したらしく、入るのを諦めてショーウインドウに背中を預けた。

 

(しばらく待って、隙間ができてから入ってみよう。)

 

まだまだ日は高い。長引くようであれば、そこらへんをぶらついて時間を潰せばいい。急いで帰らなければならない用もないし、懐にも余裕を持たせてあるからファストフード店かそこいらでテキトーにお茶でも。

そう考え、ポケットからスマートフォンを取り出そうとした、そのときだった。

 

「JOJO!」

 

聞き覚えのある高い声が、ジョセフの愛称を呼んだ。

 

「ちょうどいいタイミングで来てくれたわね! 暇? 暇でしょ? 来て来てこっち!」

 

何事かとジョセフが振り返るよりも先に、声の主は彼の腕を引いてまくしたてた。ご丁寧にもすべての台詞の末尾に感嘆符を添えて――疑問符もあったようだがもはや尋ねるなどというレベルではないし応える暇さえない――応戦する隙を与えない。あれよあれよというまにジョセフは未だかつてない圧迫感の中に引きずり込まれ、店の奥で着せ替え人形の如くぴっちりとエプロンを装着させられた。唯一彼に理解することができたのは、マシンガンさながらにテキパキと喋り、動くのが、よく知る同級生の女の子ということだけであった。

 

「お疲れ様ァ!」

 

最後の客を見送り店内に本来のものであろう静けさが戻ってきた頃、同級生の女子、スージーQは高らかにねぎらいの言葉を述べた。片方の手を腰に当て、もう片方の手で額の汗を拭い、疲れを微塵も滲ませぬ笑顔でジョセフを見上げる。先ほどまでの余韻で、その真っ直ぐな瞳がマシンガンの銃口のように感じられたが、弾丸が連射される気配はないので、ジョセフはやれやれと溜息を吐き、どうにかこうにか肩の力を抜いた。

 

「オツカレサマー!じゃあねえぞ、このアマァ……、」

「だって人手が足りなかったんだもの」

 

ぷう、と子どものように膨れるスージーQの頬をジョセフの指先が押し潰す。彼女のちょこまかとした挙動やピーチクパーチクとよく喋る様子はヒヨコかなにかみたいだと常々思っていたが、まさにそのとおりだと確信めいたものを感じた。レジを打ちながら垣間見た彼女の頼もしい仕事ぶりもすっかり忘れてしまうくらい、ぴったりと印象が嵌る。

 

「店長が配達に行っちゃったのに、そういうときに限ってお客さんいっぱい来るのよ? 手伝うべきでしょ?」

 

聞けば、彼女はこの店でアルバイトをしていて、今日も夕方までシフトが入っていた。季節柄繁盛する時期だが今年は比較的落ち着いていたほうで、その隙を見て店長は彼女ともうひとりの新人アルバイトに店を任せて品物の配達に出かけていった。しかし、店長が出ていって三十分もしないうちに客が増えてきて、ラッピングだの電話応対だのと接客に追われているあいだに気がつけば店内が未だかつてない人口密度になっていた。勤務を始めて二週間足らずの新人はすでに半泣きで、鳴りやまぬ電話と客の呼び声に彼女自身もパニックになりかけたところ、ショーウインドウの前でぼうっと突っ立っている見慣れた後頭部、もといジョセフを見つけたのだそうだ。

ジョセフ自身からしてみれば、自分のほうこそ接客の経験もノウハウも持ち合わせていない身の上だ。それなのに、よくもまあ手伝ってもらおうなどという気になったものだと呆れを通り越して感心した。この同級生が突飛なことを言いだすのはいつものことだが、部外者をそう易々と巻き込んでいいとは思えない。

 

「そのへんは大丈夫よ! 私、これでも一応バイトリーダーなんだから!」

 

と、意気揚々と胸を張るスージーQ。

なにがどう大丈夫なのか、ジョセフには皆目見当がつかなかった。

 

「そんなことより、見なくていいの?」

 

挙句の果てにそんなこと扱いをし始めてしまった同級生に、ジョセフはこの店の行く末に一抹の不安を感じ取った。けれども、店の今後には興味がないし、そんなことよりも、小動物に似た真ん丸な瞳の問いかけのほうが重要だった。

当初の目的を思い出し、それをこのお喋りな女子に感づかれたのではと少しぎくりとする。

 

「ウチに用だったんでしょう? 助っ人してくれたお礼に、ちょっとだけオマケしてあげてもいいわよ」

 

そんな懸念を余所に、普段からよく見る彼女のにっこりとした笑顔は、裏も表もなくただ純粋に輝いた。大学に入ってから知り合ったため友人としての付き合いはまだまだ浅いが、そうやってなんの含みもなく素直に感情を向けてくれるのが彼女の長所だということをジョセフはすでに理解している。

なんとなく気恥ずかしくはあるものの、おかげで遠慮をすることはない。

だから今日も、ジョセフはスージーQに促されるまま店内をぐるりと見てまわった。

大きな波が去った直後だからだろうか、陳列棚はややすっきりとしているらしかった。普段の陳列具合を見たことがないから感覚によるものでしかないが、不自然な空白が生まれている箇所が確かにある。改めて先の津波の勢いを思い知った。

ともあれ、棚にはまだいくつもの花々が飾られている。誰でも一度は見たことがあるであろうポピュラーなものから、あまり聞いたことのない名前ものまで。それぞれ色鮮やかに花開き鉢に植わっている。

花そのものだけでなく、小型のプランターや鉢も販売していた。あたたかみのある木製のものには「まずはコレ!」、動物や小人を象った鉢には「オススメ!」など、客に向けて存分にアピールするポップが取りつけられている。

見覚えのある筆跡でつづられているそれは、きっとニコニコしながらこちらの様子を見張っている同級生が作ったものなのだろう。意外な一面を垣間見たような気がして、ちょっとくすぐったかった。

 

「JOJOと花ってなんだか不思議な組み合わせよね」

「悪かったな」

「悪いなんて言ってないでしょ。意外と似合ってるってコト!」

「……嬉しくねえっつーの」

 

野次を飛ばす同級生の満面の笑みに耐えきれず、ジョセフは盛大に顔を顰めた。それを見てスージーQはまたいっそう笑みを深め、楽しそうに目を細める。いつもなら反論も便乗も簡単にやってのけるはずだが、彼女のテリトリーにいる今のジョセフには、そのにこやかでありつつ好奇心を潜ませた視線に打ち勝つことはできなかった。

早々に退却するが吉。そう判断し、目の前の商品を手に取ってレジカウンターへと足を戻した。

 

「あら、それでいいの?」

「え? ああ、うん」

「……贈り物よね?」

「そうだけど、」

「…………?」

 

こてん、と首を傾げて再三確認を取るスージーQに、ジョセフも頭上に疑問符を飛ばした。

レジカウンターの上に置かれたのは一輪の赤い花である。水に挿してあったものではなく、すでにラッピングされてあったものだ。桃色のスポンジを支えにすらりと立ち、透明なプラスチックの箱に静かに収まっている。茎の緑も花弁の赤も瑞々しく、控えめながらも確かな存在感を放つ棘が不可侵な神々しささえ醸し出しているようだった。

 

(いいのかしら……?)

 

ジョセフが選んだのは一輪の薔薇だった。

ひらひらとリボンで飾りつけられているわけでもなく、何十本もの束になっているわけでもなく、密やかに佇んでいるだけのシンプルな赤い花。

普通はカーネーションを贈るものなんじゃないかしら、と彼の目的を察していたスージーQは思った。彼女だけでなく、誰もがそう思うだろう。しかし、ジョセフにとっては、それが限られた品種のものである必要性などどこにもない。日付や名目などもはやただの言い訳でしかないのだから、そんなものに左右されることもない。

ジョセフはただ、母親の姿を思い浮かべてその花を手に取った。

それだけだった。

 

「もっとかわいくラッピングできるけど、する?」

「あー、そういうのはいい。全然。そのままで」

「そう? じゃあ値札だけ取っておくわね」

 

スージーQは少し迷ったが、ジョセフがいいと言うのならそれが一番に違いないと思い直し、彼の希望に従って薔薇を包んだ。宣言どおり少しだけオマケをして勘定する。気を効かせ、中身が透けて見えない袋に入れて品物を手渡すと、ジョセフはその体躯とは裏腹な慎重さで、そうっと受け取った。

あらあら、と微笑んでしまいそうになるのをぐっと堪え、スージーQは店の外まで同級生を見送りに出る。

 

「それじゃあ、がんばってね!」

「……なにが?」

「うふふ、いいのいいの!」

 

言葉は噛み合っていないが、どうやらすべて悟られているらしい。ジョセフは再度顔を顰めて、さっさと花屋に背を向けた。

投げかけられる視線と同じ方向から、夕日が迫ってきている。

 

ジョセフ・ジョースターの手の中で、一輪の薔薇がひっそりと揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実のところ、エリザベス・ジョースターは異変を感知していた。

伊達に母親をしているわけではない。仕事に明け暮れる日々を長らく続けてはいるものの、幼い頃から変わらぬ素直さを持つ息子のこと。その目を見ればなんとなく、いつもとはなにかが違うということを知ることができた。

とはいえ、やはりどこか希薄な関係性であるには違いない。なにせ彼女は実の息子の趣味も、よく行く店も、幼馴染以外に仲のいい友人も、食べ物の好き嫌いさえ充分に把握していなかった。そのような状態で、息子がどんなことを考え、企てているかなど、目を見ただけで読み取るのは困難を極める。

だから、「なんだかいつもと様子が違うみたいだけれど、どうしたのかしら」と思うことしかできなかった。

その一方でジョセフ・ジョースターはといえば、母に感づかれているかもしれないという可能性についてほんのちょっぴりの懸念を抱いていた。

リサリサは聡明で鋭い女性だ。常に冷静で、目敏く耳聡い。ジョセフ自身が母親のことをその程度しか知らないように、リサリサ自身も息子についての情報を然程持っていないとは思っていたが、それを意に介さないくらい彼女が賢いということもわかっている。せめて準備期間は――最善を求めるならば目標となる五月の第二日曜当日さえ――彼女に会わないパターンが望ましかったが、それもすでに突破され済み。しかも、いつもならテキトーな返事で済ませるところだったのに、あからさまに動揺してみせてしまった。

なにかしらを察知されてしまっているのは間違いない。

ジョセフは帰路を辿りながら、猫背気味の背をさらに丸めて深々と溜息を吐いた。

 

(どうやって渡そう……、)

 

それは今日までに幾度となく考えた事案だった。

幼馴染の長話からヒントを得たことで「花を贈る」という目標ができ、準備ができたところまではいい。肝心なのは、準備したものをいつ、如何にして母に渡すかということで、それが最大の難所であった。

選択肢その一。面と向かって渡す。

もっともスタンダードであり、もっとも望まれる形の母の日となろう。普段ろくに話もせず、生まれてこのかた親子らしい交流から疎遠だったジョセフの手から贈られるとあればリサリサも必ず喜ぶ。そうに違いない。

けれど、如何せんハードルが高い。そもそも当日、リサリサが家に帰ってくるかどうかもわからないし、帰ってくるとしてもそれがいったい何時になるのか見当がつかない。なんと言って渡せばいいかもわからないし、渡したあとどうしたらいいかも考えつかないし、それに、どんな顔をして、母の顔を、目を、見ればいいのか。

 

(ぜんぜん想像できねえし。……っていうか、見れない、かも、)

 

ジョセフはのそのそと踵を引きずった。

選択肢その二。手渡しはせずに母の自室に置いておく。

これこそ今ジョセフが考え得る中でもっとも安全かつ容易な方法だった。帰宅してすぐにリサリサの部屋に忍び込んで、どこか気づいてもらいやすい場所に置いておく。あるいは、今日でなくても明日、母の日当日にそうしたって構わない。どうせ出かけていることのほうが多いのだから、いくらでもチャンスはある。この方法なら、面と向かわなくて済むし、余計なことを話さなくてもいいし、ラクチンだしカンタンだしすぐにできるし、なにより、これまで抱えてきた憂鬱とか、不安とか、悩みとかから、手っ取り早く解放される。

そう、思うのだが、ジョセフはこの方法を挙げるだけで選択するつもりはなかった。これは彼にとって、あくまで最後の手段。今日も、明日も、その次の日も、さらにその次の日も意を決することができず、せっかく用意した贈り物を駄目にしてしまいそうになったときのための手段だった。

 

(だって、それじゃあ意味がない)

 

なにかしたいと願ったのは、ただ単純に行動することだけを示していたわけじゃなくて、向き合いたいと願ったのは、告白や懺悔なんかをしたいわけじゃなくて、どちらにも、もっと純粋ななにかを、思いを込めていたはずだ。

それはとても曖昧な感情だけれど、ジョセフの内側でとてもはっきりとしたビジョンを持っている。悩みながら、俯きながら思い浮かぶのは、いつかの母の、凛々しくも優しい瞳で、それを、自分も見たいと、こっちを向いてくれればいいのにと思ったがゆえの、願いで、だから、だからこそ、この手段は、自分から選び取ってはいけないとジョセフは理解していた。

なにかしたいと願ったことに対して、時間はかかったけれどちゃんと準備ができた。

向き合いたいと願うなら、次は、きちんと母の目を見なければいけない。

無人の部屋にぜんぶ置き去りにして逃げたりなんてしちゃあいけない。

三つ目の選択肢として、祖母に託すことも検討しようかと思っていたけれど、それも駄目だ。

ちゃんと自分で、成し遂げなくては。

だって、願ったのは、他でもない自分自身なのだから。

ぴたりと足をとめ、ジョセフは目を閉じる。

大きく深呼吸をして、意を決し、目を開ける。

また心臓が緊張し始めていたが、胸に手を当てることで宥める。

 

(大丈夫、まだ、本番は明日だ。明日、明日……、)

「ジョセフ」

「ぎゃあああっ!!?」

 

瞑想中、しかもどうにか鼓動を宥め終えたところに突如、渦中の人物の声に名を呼ばれ、ジョセフは文字どおり飛び上るほど驚いた。ほんの一瞬、足の裏が地面から離れて宙に浮く。ついでに肩も跳ね上がって、その内部で骨がびりりと振動した。

またか、とジョセフは胸中で嘆く。

本当に、タイミングがいいんだか悪いんだか。

溜息を吐きそうになるのをなんとか飲み込んで、そろりと振り返ってみる。そこには当然、声の主がいて、その影はきちんと彼の母親を象っていて、先ほどの声は聞き間違いなどではなかったのだと思い知らされた。

盛大に叫んだジョセフに対しても変わらぬ冷静な瞳で、リサリサは息子を見据えている。

今にも「往来で大声を出すものではありません」と諌めてきそうな視線。実際、リサリサはそう思っていた。けれど、大学生にもなった息子を子ども扱いするのはそろそろ控えたほうがいいとも考えていたので、なにも言わずに留める。ジョセフにとってはそれが意外で、せっかく用意していた「誰のせいだ」という反論が無用のものとなってしまい、なんとも肩すかしを食らった気分になっていた。

どちらも黙っていたため、その意思は互いにちっとも伝わらなかったわけだが。

 

「今帰るところですか?」

「あ、ハイ……、」

「……、」

「……、えっと、一緒に行く?」

「ええ、」

 

喋ったかと思えば黙り、黙ったかと思えば何事もなく返事を寄越して歩き始めるリサリサに、ジョセフは戸惑いながらもついていく。隣を歩くのは、なんとなく、躊躇われたので一歩後ろ。リサリサの艶やかな黒髪と、その切れ間から除くなめらかな頬が見える位置に収まる。真っ直ぐに前を見据える瞳や、唇を彩る赤いルージュが、黒髪と白い頬のコントラストに色彩を添えていて、たぶん、誰の目から見ても美しい容貌なのだろうと思う。

ジョセフにとっては自分の母親ということもあってよくわからないところだ。でも、街ゆく人々を見ていると、もしかして自分の母親はかなり美人なほうなのではなかろうかと思い至ったことは過去に何度かあった。

だからといって、べつに嬉しくも誇らしくもない。ジョセフにとって重要なのは、母の見目麗しさなどではなく、もっと違うところにあるなにかだからだ。

 

(一緒に歩くの、いつぶりだろ……、)

 

気を抜くとすぐにも追い越してしまいそうな歩幅に注意しながら、ジョセフはゆっくりと踵を鳴らす。それに重なって、リサリサのヒールがコツンコツンと鳴る。

高すぎぬ音。やわらかく大地を踏みしめる音。しかとアスファルトを叩く音。

学内で、街で、何度も聞いたことのある音だ。女性のヒールの音なんて、特段耳につくわけでも気にかかるわけでもなく、自然に聞き流すことができる。

けれど、ジョセフは母の足音に無意識のうちに耳を傾けて、そのリズムに合わせて歩幅を測っていた。

風になびく黒髪に焦点を合わせてみたり、思ったよりも低い位置にある後頭部を見つめてみたりして、不思議な感動を覚えていた。

少しだけ、手を伸ばしてみたくなって、でも、思い直してポケットに突っ込んで、居た堪れなくなって唇を引き結んでいた。

右手の指先に引っかかったビニール袋が重みを増したような気がする。

そろりと手元に視点を落とす。

中身が透けないよう加工された白い袋。その表面に描かれた店名のロゴと小さな花。

どこにでもあるシンプルさ。誰でも手にできるありふれたデザイン。

持ち手の隙間から、赤い花弁がちらりと覗いた。

目が合う。

そのときと、同じ感覚がした。

 

(やっぱり、)

「ジョセフ」

「ぅひゃい!」

 

驚きの声と反射的な返事が混ざってしまい、ジョセフは素っ頓狂な声をあげた。跳ね上がった肩につられて前を向くと、すでにそこにリサリサはおらず、どうしてか背後で腕組みをして佇んでいた。そして、その赤い唇をうっそりと開く。

 

「どこまで行くつもりですか。他に用事が?」

「…………イイエ、」

 

家の前まで帰ってきていたらしい。彼の母親が立っているのは、自宅の門扉の傍らだった。考えているあいだに前を歩いていたリサリサを追い越して、ついでに家まで通り過ぎてしまっていたようだ。

振り返ったジョセフは、いつの間に、とわずかに唇を歪めた。

そして、ぼんやりと思う。

今にも門扉をくぐろうとする母と、目も声も充分に届くのに確かに手の届かない場所に立ち尽くす自分自身の、曖昧な距離感。

内と外。

境界線。

その在り処。

あるはずのない、あるいは、ないはずなのにそこに存在する、猜疑と、羨望と、願い。

憂鬱の影に咲く望み。

きっと、それらはここに、この距離感の中に、埋まっていて、だから、ずっと、踏み出せなかったのだと。

踏み抜いて、いつ決壊してしまうとも知れないものが、地雷のように、この足を挫いてしまうのを、恐れていたのだと。

でも、そこに存在するものも、存在しないものも、すべて掘り返してしまったから、きっともう、恐れる必要もないし、避けたりしなくてもいい。

踏み締めて、踏み越えていったっていい。

 

「ま、待って!」

 

ジョセフは玄関扉の前に立つ母のもとへと駆け寄った。彼女は鞄から鍵を探し当てて、ちょうど鍵穴に挿し込もうとしていたところで、その手がジョセフの声にぴたりととまる。

小走りをしただけのはずなのにリズムを崩す彼の鼓動は、わずかな緊張によっていつもより強く胸骨を叩いていた。汗が滲む手からなにも取りこぼさないよう、ぎゅっと拳を作り、ジョセフは振り返る母の前に立つ。

母の瞳がちゃんと自分に焦点を合わせているのを確認する。

 

「どうしました?」

「うん、あの……、えーっとデスネ……、」

 

しかし、こういうときにどのような言葉を発すべきなのか、ジョセフにはちっともわからなかった。なにか特別なことでも言ったほうがいいのか、それともなにも言わないほうがいいのか、さりげなくするべきなのか、いつもどおりでいいのか。判別がつかなくて言葉を濁すばかり。

そんな息子を不審に思い、リサリサの瞳がやや細められる。それに加えて、次の言葉を待ってじっと見つめてくるものだから、ジョセフはますます言葉に詰まった。形だけでも正面から向き合うことができて第一関門を突破したと思った矢先だというのに。第二関門までの道のりが短すぎる。

しかも、わずかばかりだった緊張の中に狼狽と困惑が飛び込んできたものだから始末に負えない。考えはうまくまとまらないし、言葉は出てこないし、母の視線に滅多刺しにされるし、散々だ。

だからといって、このまま黙っているわけにもいかない。逃げることなどもっての外だ。

ここまで来たら、進むしかない。

当たって砕けることを覚悟して、ジョセフは握り締めた右手をリサリサの眼前に突き出した。

ガサリとビニールが鳴り、ゆらゆらと揺れる。

潜む赤い花弁と、母の赤いルージュが並んだ。

 

「これ、ドーゾ」

 

結局、ジョセフの口から絞り出されたのは、なんの感動もなく、ありきたりで、もっともそっけない一言となってしまった。

だが、ジョセフにはそんなことを気にしている余裕はない。なにやら無性に恥ずかしくて、気まずくて、やたらと暑い。ついこのあいだ春が来たと思っていたのにもう夏が来たのかと思わずにはいられないほど暑くて、てのひらばかりでなく、うなじや腋にもじりりと汗が滲み始めている。リサリサが手にしてくれたため袋から手を放したが、持ち手のところは未だ彼の体温を携えてぬるく湿っているに違いない。

ジョセフは空になったてのひらをこっそりとズボンで拭った。

 

「これは、」

「あー……、ほんとは明日、なんですケド、その……、せっかく、会えたので、」

 

切れ長だと思っていたはずの母の目が大きく丸められるのを見て、ジョセフはますます気恥ずかしくなった。つい目を逸らしてしまう。いまいち真意が伝わっていなさそうなリサリサに説明を試みるも、掻い摘みすぎてよくわからないことになっている。

それでも彼の意思を汲み取ったらしい。リサリサは赤い花弁の造形をしかと目に焼きつけて、けれども首を傾げて改めて息子を見上げる。

 

「母の日の?」

「…………ハイ、」

「……カーネーションではなく?」

「え……?」

 

耳馴染みのない名称に、今度はジョセフの瞳が真ん丸に見開かれた。

ふたり揃って向き合ったまま首を傾げ合う。けれどそれも数秒のことで、なにも知らぬ様子の息子にリサリサは目を伏せ、懇々と解説を始めた。

世間一般的には、母の日に贈る花といえばカーネーションである、と。ついでにその由来についても簡単な解説が入り、彼女の博識ぶりが披露された。

ジョセフがまともに聞いていたのは、話のはじめのほうだけだったが。

 

「そうなの?!」

「あなたにそういうことを教えてこなかった私の責任ですね」

「うぐっ……、」

 

新たな知識に驚愕するのも束の間、ジョセフは顔を顰めて唸った。本来の目的は母のためになにかすること、母が喜ぶようななにかをすることだったのに、責任を負わせるようなことをしてどうするんだ。

がくりと項垂れる。

 

「でも、私はこちらのほうが好きです」

 

本末転倒という言葉がジョセフの脳内で渦を巻きかけた瞬間、リサリサはぽつりと呟いた。

ジョセフは項垂れたまま視線だけで母を見遣る。

そして、透明な箱に納められた赤い花を見つめる母の姿に、小さく感動した。

 

「私は薔薇が好きですし、なにより、あなたが選んだものであるということに意味があります」

 

ゆったりと弧を描く唇が紡ぐ言葉。穏やかに細められた目元。

わずかな風にそよぐ黒髪の艶。静かな眼差し。

すべてがやさしくて、やわらかさの中に確かな輪郭を持っていて、いつか、学内で見たときの表情に似ているのに、決して、同じではない色が、なんの隔たりもなく目の前にある。

それが、迷いなくジョセフを捉える。

 

「ありがとう。大事にします」

 

正面に立つんじゃなかったと、ジョセフは今更ながら後悔した。

こんなの恥ずかしすぎるとか、あまりに軽率なことを望んでしまったとか、自分が為そうとしていたことを改めて突きつけられて、如何に自分が夢見がちだったのかを思い知らされた。こんな目に遭わされるだなんて思ってもみなかったと、深く深く俯いた。

しかし、そんな思いとは裏腹に、本当は得も言われぬ喜びを感じていた。物心ついた頃から感じていた後ろめたさも、幼馴染への的外れな羨望も、名も知らぬ学生への嫉妬も、すべてがどうでもよくなって、汗とともに蒸発していった。

垂れた頭に触れる、母のほっそりとした手に、不覚にも泣きそうになった。

 

「ありがとう」

 

小さな声が、風に靡いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジョセフ・ジョースターは困っていた。

翌週、未だ連休明けの気だるさが抜けきらない身体を引きずって登校し、変わらぬ日常の中に舞い戻って数日。奇妙な気配に追われているような気がしてならなかったのだ。

拙くはあったが自ら掲げたミッションを無事に成し遂げ、母の多忙に変化はないが心持ち穏やかにその姿を見ることができるようになり、万事安泰かと思われた。

けれど、そんなジョセフの安寧の影に、密やかな視線が投じられていたのだ。

 

「失礼しまーす! リサリサ様ァ、名簿が出来上がりました」

「ご苦労様、スージーQ」

 

一方、エリザベス・ジョースターは目に見えてご機嫌麗しい様子だった。

彼女と然程付き合いのない人間からすればいつもどおりの平静さで立ちまわっているように見えるだろう。だが、バイト先の常連客兼サークルの顧問として継続的な交流があるスージーQや、ゼミ講師兼幼馴染の母親として公私に渡って世話になっているシーザーなどからすれば、リサリサの異変など一目瞭然。眉や唇の角度がほんのわずかに上がっていることにもすぐさま気づき、事の次第を察することができた。

 

「デスクに置いておいてください。……ああ、花瓶には気をつけて」

「はーい。ふふ、それにしてもスゴイ豪華ですよね」

「あの子は負けず嫌いですから」

 

窓辺から動かないまま、リサリサは誰の目にも明らかなほどに唇で弧を描く。そして、昨日家に巨大な花束を抱えて訪れた息子の幼馴染の顔を思い浮かべた。彼女のことを実の母のように慕っているその青年は毎年五月の第二日曜日に、リサリサに贈り物をする。今年はそれが一段と華やかで、随分と驚かされたものだ。

ジョセフの計画を知っていたのだろうとリサリサはすぐに気づき、笑いを堪えるのに難儀した。思い返してみれば、息子は花をくれる前日、この幼馴染のもとに足を運んでいる。

昔から負けず嫌いな性分の彼が、すべてを知っていてわざわざ過去と同じような手に甘んじるわけがない。その結果、両手で抱えるのがやっとというほどの大きさの花束を届けてくれて、彼女の研究室に並々ならぬ存在感と色彩を与えてくれることとなった。

 

「その割にふたりとも同じお店で買い物しちゃってますけどね、」

「おそらく無意識でしょう」

「シーザーのおかげで私とJOJOは大わらわでした!」

「それは黙っておいてあげてね、また喧嘩になるから」

「はーい」

 

このお喋りな教え子から、ジョセフが花屋の助っ人として急遽駆り出されたことは聞いていた。でもそれが、シーザーのもとに商品を届けるべく店舗の人員を欠いたことを発端としていたとジョセフが知れば、ふたりのあいだでなにかしらの言い争いが起こるに違いない。

だが、やはり母親である。リサリサは息子たちのことを充分に理解しているがゆえに、スージーQに秘密を課すことにした。

守られる確証はと言われれば、かなり心配だけれど。

 

「バードウォッチングは順調ですか?」

 

花瓶に活けられた赤い花をそっと整えながら、スージーQはリサリサに尋ねた。色とりどりの花が並ぶ中央で、ひときわ強く存在感を放つのはその赤で、澄んだ水を巡らせて瑞々しく花開いている。

 

「ええ。少しそわそわしてしまっているけれど」

「意外と繊細ですからね~」

「そうかもしれないわ。まだ幼いから」

「うふふ、わかります」

 

教え子に微笑みかけ、リサリサはすぐに視線を戻した。手にした小さな双眼鏡を覗き込み、その先に映るブルネットを追いかける。

仲間と戯れ、ぱちりと瞬き、くるくると表情を変える様を愛しげに見つめる。

時折きょろきょろと周囲を見渡しているのがなんだか可愛らしくて、自然と口角が持ち上がる。

 

「でも、ちゃんと成長しているみたい」

 

目を細め、記憶と重ね合わせて反芻する。

懐かしみながら鐘の音を聞き、惜しみながら教え子の声に応える。

教材を抱え、戸締りをし、どこか満足した気持ちで廊下を渡る。

双眼鏡はポケットの中。

 

ジョセフの胸にまたひとつ憂鬱の種を蒔いて、エリザベス・ジョースターは高く踵を鳴らした。